対話できるための条件の一つ→安心感
教室で安心して生活できるために
①自分が認められているというという満足感
→これがあれば,平等ではなく公平に子どもに対応することができる。
→公平な支援こそがプラスαで多様性を認め合える心を養える。
例:ある子が気分がのらず,甘え上手で先生を一人いじめする。
↓
“◯◯さんだけズルい!!!”⇦まだ満足感を感じていない,先生はえこひいきする,先生は◯◯さんにだけ優しい,先生なんて嫌い
それでは一人ひとりの実態に応じた対応なんてできない。
スーパー脱線タイム
話は脱線するが,研究授業や学級経営案ででよく“子どもの実態”というところがあるけど,そもそも子どもの実態なんて一般化できない。
20人いれば20人の実態がある。それに応じた20通りの手立てある。
愚痴になってしまったので,話は戻して
ある子が気分がのらず,甘え上手で先生を一人いじめする。
↓
この時,“◯◯さんは今日はそういう気分なんだな。自分もそういう時あるな”
と,こうなれば良いよね。
お互いを尊重し合う心を育みたい。
そうすれば過度な平等意識,みんな一緒が正義という感覚が少なくなる
“みんなちがってみんな良い”って本当にすごい言葉だなあ!!
※大人も子どもも
※出る杭を打とうとするのはやめましょう(あ,また愚痴に)
②全員が対等な関係(大人も子どもも)
お互いが本音を言える空間てとても大切なことで,安心につながると思う。
プラスαで学びも深まる。
道徳の授業では,よく“礼儀”は大切です・“相手を思いやることは大切です”など価値理解に終わることがある。
でも,子どもにとってそんなことは知っている。
知っているんだけどできない人間的な弱さ=人間理解をしていくことの方が重要ではないか。
“分かっているんだけどこういうことでできないんだよね”
“わかるー!!自分もそう!!”
道徳って,お互いに本音を言い合える場としてはとても使えると感じている。
“あ,こんなこと言ってもいいんだな”
“誰にも笑われないな”
こんなふうに,安心感も生まれ,学びも深まる。
結論
①自分が認められているという満足感
②全員が対等な関係
教科を教えるのは子ども同士でできる。
①②のような空間や価値を教えることは教師にしかできない。
↓
そのための手立ては教師の声かけ以外何があるんでしょう。
思想はもっていても,そのための手段(引き出し)が少ないのが、若手の悩み
若手って一般化してはいけない?
俺の悩みだけかな?