コロナウイルスによる休校中,時間があるため何かと授業について考えるイケミです。
さて,今回は評価について考えていきたいと思います。
評価の在り方については前から気になっていましたが,特に“関心・意欲・態度”といわれるものです。
通知表でもよく各教科の一番初めの項目にある,“〇〇に進んで取り組むことができる”というような文言のあれです。
今年度から施行された新学習指導要領では,“主体的に学びに向かう態度”という言葉に変わりました。
つまり,子どもが主体的に取り組んでいるかどうかをこちらが評価するというわけです。
この評価の在り方についてはこれまで批判的なことも含め言われてきましたが,僕も思うところがあるので書くので,ご覧になられる方は参考にしていただければと思います。
目次
1 主体的に子どもが取り組むかどうかは,その学習が本人にとって面白いかどうかで決まる
人は,目の前の出来事が面白ければ自然と主体的になれると思っています。
あるいは,自分にとって必要感のある問題,すなわちその問題が“課題”となれば自ずと主体的になることができます。
〝この問題は解かずにはいられない〟そんな問題になると、子どもたちは多いに主体性を発揮します。
また,良い大学に入りたい,頭が良くなりたいなど,目標を明確にもっている人は主体的になることができます。
この逆を考えると,自分にとって面白くもないし,必要感もない,将来役に立たないと感じている場合,主体的になれるわけがありません。
テレビで考えると,興味のない番組を我慢してずっと見続けなければいけない,これと論理は同じです。
ただの苦痛でしかありません。
つまり,授業の良し悪しで子どもが主体的になれるかどうか決まる面もあるのに,先生→子どもへの一方的な評価は果たして良いのでしょうか?
最低でも,自分の授業改善を常に考え続けなければいけないし,自分の授業に半分責任があるという視点ももって評価しなければいけません。
以前,僕の大尊敬する先生がこのように言っていました。
「俺たち教員が子どもを評価するなんておこがましい。俺たちの仕事は子どもの学びの土を耕し,芽が出てきたら水やりをすることだ」
この言葉に僕は,激しく心を打たれました。
僕は子どもを評価できるほど子どもを見れていないし授業もうまくできていない。
僕が子どものためにできることは,子どものために自分が変わることが最も重要なことだと思うようになりました。
2 そもそも何をもって“主体的に取り組めている”ということになるのか?
1 挙手をすれば良い?
挙手をしたらA評価にする,という先生は未だにいるんですかね?さすがにもうない気はしますが、、、
もちろん挙手も主体的になれている一つの指標ではありますが,全部が全部挙手で決めるということはなくしていきたいです。
さらに言うと,挙手は“主体的に取り組めているか”を評価するにはあまりにも弱いと思います。
挙手をして発言はしなくても頭の中で一生懸命考えている,これもA評価のはずです。
2 先生の言うことを素直に聞いて言う通りにする子どもが主体的なのか?
よく耳にするのは,『良い子』という表現。
ここでは,先生の言うことをきちんと守って,先生の理想とする通りに行動している子のことを指します。
そういう子は果たして主体的なのでしょうか?
「良い子でいたい」そのことは尊重します。
ただ,主体的かどうか聞かれると疑問です。
“先生の言われた通りに行動することは自分にとっての本当の願いなのか?”
「はい!」と答える子はいないのではないでしょうか。
子ども達は,一人ひとりやりたいことがあるし,その逆に“やりたくない”もある。
“やりたくない”というのは,もっと別にやりたいことがあるということ。
そう考えると,やらないことも主体的と言えると思います。
先生のあらかじめ設定した枠の中においての主体的だけが主体的でないはずです。
3 学習への興味はあるが,子ども同士の人間関係が良好でないから主体的になれない場合もある
学習への興味はあるのに,人間関係が良くないため主体的になれない場合もあります。
どういうことかというと,例えば自分は意見を言いたいのに,意見を言ったら周りから
「優等生だなお前」
と言われる。
大人になれば,「はい?あなたに何と言われようが関係ない」となりますが,子どもにとって見れば,“自分が周りからどう見られるか”を気にしたり,周りと良好な人間関係を築いたりする方がむしろ先決なんです。
なので,「この子は学習に興味がない」という決めつけは良くありません。
3 数値化できないものを評価にして良いのか?
知識や技能はテストの点数で測定することができます。
要は“習得しているかどうか”ですから。
しかし,主体的であるかどうかは,数値化できないし,これまで書いてきたように色んなことが相互に絡み合っているので,評価となるとものすごく難しいのではないでしょうか。
おそらくこれは国でも議論されてきたことであると思いますが,結局のところ要録には評価するものとして載っているので,“評価するもの”というのが結論なわけです。
今年度,この評価の仕方は多くの先生は迷ってしまいそうです。
4 先生と子どもが相互に評価し合う関係性に!!
先生→子どもの一方的な評価ではなく,子ども→先生に対してももっと評価をしてもらい,先生自身も改善していく営みが必要不可欠です。
絶対的に自分のやり方が正しいわけはないですし,目の前にいる子ども達のために先生は存在するので,目の前の子どもに直接聞けば,それはもうお互いのためになりまくりです。
手短なところでいくと,「今日の授業どうだった?」とこちらから聞けば良い。
そうすることで子どもは答えてくれるはずです。
「もっとグループで考えたかったなあ」「先生が答えを言うんじゃなくて,自分たちで考えたかったなあ」などなど
僕は,子ども達のために柔軟に変われる先生が良い先生だと思っています。
5 終わりに【そもそも全てが主体的でなければいけないの?】
最近,何もかも主体的になるって不可能なんじゃないか?と思っています。
“全てに全力です!!”なんてことあり得ません。
周りの人に環境を作ってもらい,そこで受け身で勉強する。
これでも最終的には自分のに還ってくる場合も十分あります。
受け身でも自分のためになることは山ほどあります。
受け身で学びたい人もいます。ただ,姿としてはそれが主体的であるかどうか見えづらいだけの話。
だからこそ,全てが主体的である必要はないし,受け身=悪というわけでもないはずです。
そもそも主体的と受け身の二項対立ではないということは分かっていますが、、、
難しいですねえ主体的って、、、
では。